昭和52年10月30日 清松家霊祭
信心をさせて頂いておると第一に、「神様のお心が分かりたい。」。こうして、霊祭などを仕えさせてもらうと、「御霊様のお心の状態も知りたい。」と、こう思います。御霊様の心が分からなければ、御霊様に喜んで頂くこともでけません。天地の親神さまのお心が、分からなければ、本当の信心もでけません。いわば、親の心が分からなければ、親孝行ができないのと同じこと。親が、「右にしてくれるとなぁ。」と思っておるのに、いかに左の方を、に、性根を入れたところで、かえって、はがゆい思いをさせるような結果にすらなるのです、ね。例えば、「表が、かゆい」と言うっておるのに、裏の方をかいてやったり、「そこじゃなか、そこじゃなか。」というごたあるようなもんじゃないだろうかと。まずは、神様のお心が分かりたい。信心させてもらうなら、もう、神様のお心が分かりたい、ね。そして、信心させて頂く者が、御霊様のお祭りでもさせて頂く時には、本当に、御霊様のご様子も知りたい。御霊様のお心も分かりたい。そして、「ああでもなかろうか。こうでもなかろうか。」と思いを込めて、まぁ、いわば、こういうお祭りがでけたわけです。もう、本当に沢山のお金をかけたり、きらびやかな、例えば、お祭りをすれば、御霊様が喜んで下さるとか、神様が喜んで下さるとかいうなら、沢山のお金を持っとる人たちはやらは、いつも助かっておらなければならないし、そういう遺族を持っておる霊は、いつも、いうなら極楽浄土におらなければならんのだけれども、そんなものじゃない、ね。大事をしたとか、沢山の金をかけたとか、立派なお祭りをしたとかということが、そのまま、神様に通う、御霊様が喜んで下さるとは限らない。と、いうて、なら、一生懸命の思いで、神様の思いも分かりたい、御霊様のお喜びも受けたい。そういう思いが、いっぱしの、いうならば、奉仕になり、お祭りになるということになると、それは、そのまま、天地に対する還元になることです。例えば、こうやってうんなら、御霊様の前に、沢山のおごちそうを並べたからというて、御霊様が「はぁ、あれは、私の好きなもんじゃから、それを食べよう。」と言うて、食べられることじゃない。頂かれるものじゃない。これはね、天地の親神さまの、お許しを頂かなければできることではない。私共でも、やっぱ同じです。私たちが、うんなら、「ああいう着物を着たい。ああいう食べ物が食べたい。」というても、いかにもできるかのようにあるけれども、ギリギリのところは、神様のお許しを頂かなければ、着ることすらも、食することすらもできない。「これを、ひとつ持ちたい。」と思うても、なら、自分で持つかのようにあるけれども、実をいうたら、神様のおかげを頂いて、健康という、おかげを頂いておらなければ持てないのと同じこと。久留米の億万長者と言われた、あのう石橋さんの亡くなられる時には、一ヶ月あまり、食道ガンだったそうですから、米一粒通らなかったという、ね。だから、もう、それこそ、億万の金もあろう、それこそ米蔵もあろうけれども、なら、自分のもんでない証拠に、自分の自由にならない証拠に、一粒の米が喉を通らなかったというんですから。許されなければ、私共の幸せというものはありえませんし、許されなければ、うんなら、着ること、または、食すること一切のことがでけない。信心とは、そこのところの道理が分からせてもろうて、神様のお心に添う生き方をさせてもらい、その神様のお心に添う生き方が、今日の霊祭ということになるのです。「ただ、年忌が来たから、ご奉仕をする。」と。「年忌の、式年の年になったから、式年のお祭りを仕えてもろうた。」というだけではなしに、そういう、やむにやまれん、日頃、信心を頂いておる。例えば、合楽で、一番言われることは、最近、合楽理念ということですが、合楽の信心の根本は、もう、「親孝行にあり。」と言われております。もう、親に孝行がでけない人では、おかげを受けても、徳も力も受けることはできない。もう、根本は、親孝行。しかも、親孝行も、ただの親孝行じゃない。「もう、親孝行がしとうてたまらん。」という、親孝行じゃなからなければならん。それが、「合楽の信心の根本だ。」と言われております。親を大事にするということは、いうならば、家を、家の根を大事にすることだと。私共の根は、心。「その心を大事にすることが信心だ。」というふうに言われますように、目に見えないけれども、目に見えない根のところを大事にする、そこんところに、いつも、豊かな心が使われるという、おかげを頂かせてもらう。私は、今日のお祭りは、なにかしらん、ど、私の気分がよか。乗りに乗ったという感じでしたですね。なんか、あのう、ひとつの調子というものがありますね。その調子にはずれますと、なかなか、こう、思うようにいかんもんです。けれども、その調子に乗った、乗りに乗って、今日のお祭りがでけた。そんな、感じがしきりにいたします。そして、「神様が喜んでくださったなぁ。御霊様も、あわやというところで助か、おかげを頂かれたなぁ。」と、そんな感じがするんです。というのものね、御心眼に、あのう、お野菜のアスパラガスというのがあるでしょう。まぁ、青い、こんな。それを沢山、頂くんですね。あのう、アスパラガスというのは、あのう、こりゃあ、なんでもそうですけれども、お野菜でも、生で、そのまま食される物もあります。皮をむかなければ、食べられん物もあります。煮らなければ、食べられん物あります。あくを抜かなければ、食べられないという物もあります。もう、この野菜そのものには、たいした味はないけれども、調味料ひとつで、大変、引き立つという野菜もあります。こりゃぁ、野菜だけのこっちゃないけれどもね。人間でも、やっぱ、そうです。様々な(? )性格というものが、御霊の世界、御霊の、うん、世界に入っても、その性格が、そのままに現れておるですね。御霊の、それが、はっきりとしてます。アスパラガスというのはね、あのう、あれを湯がいてから、あのう、マヨネーズをかけて食べたが、おいしいですね。だから、今日は、皆さんの信心が、マヨネーズが、あのう、今は、キュウピー、マヨネーズなんかでね、すぐ買うてくりゃぁあるんですけども、あのう、昔は、いっちょ、いっちょ、作ってましたよね。卵の黄なみ、それに、サラダオイルですね、洋油。それに、なんですか、塩コショウとかね、オイルと卵の黄なみと、というような、いろんな、それに酢がいりますね。それがね、もう、調子を、ちょっと間違えたらできそこなうんです、あれは。あら、こう、混ぜる具合があるわけですね。それで、なかなか、うまく初めは、できませんけれども、だんだん馴れてくると、それが、美味しいマヨネーズ。その、美味しいマヨネーズが出来上がる。こちらのほうでは、出来上がっておった。こちらでは、アスパラガスが湯がいてあった、と、そんな感じがしました、ね。そういうところがね、あのう、乗りに乗ったという、今日の雰囲気になったのじゃぁないだろうかと、こう、思う。もちろん、卵のお知らせは、「元気な心」と、こうおっしゃる。酢というのはね、あのう、御霊様が、言葉に出しては、言えんけれども、「ああしてくれるといいなぁ。」と、こう思うてござる。それを子供が、レンコン食うてね、「はぁ、今、親父が、『あれがほしいなぁ。』っち良いよるばいなぁ。」と言うて、ね、例えて言うならば、してあげたりするようなもんです。言わんでもね。神様でもそうですからね。「氏子が、ああってくれると良いけれども。」というところを、氏子が一生懸命、真心を尽くさせてもらう。だから、信心はでけとらんけれども、神様が、信心が、いかにも、できたかのようにして、まぁ、いうならレンコンを食うて下さって、おかげを頂くという場合がありますように、酢はそういう時に頂くですね。それから、その、はは、今日はそのアスパラ、アスパラガスというのはね、もう、おかげを受ける、受けないの岐路に立っておる時に頂くです。もう、いうなら、裁判官の、いうならば、言葉ひとつでね、右にもなりゃぁ、左にもなるというような、「あわや」というような時に頂くんです。それが、いうなら、あっ、「助かる方へ頂いた。」という感じですね。アス、アスパラガスというのは。そういう、ギリギリの時に頂くお知らせなんです、私が。うん。それに、なら、マヨネーズが、ちょうどでけておった。それが、ちょうど、食する、食し加減であったというようなところをね、そのことを神様に御礼申させて頂いておりましたらね、こう、山という字をね、こう頂くんですね。こう、山。はぁ、御霊、山のお知らせは、修行ということ。これは、神様が受けて下さる修行です、ね。ただ、苦労とか難儀というのじゃないです。御霊は、御霊ながらに、やはり、合楽理念に基づいて、朝晩こうして、み教えを頂いてますから、合楽理念に基づいて、うんなら、修行してますばいね、ね。その、山という字を、こう先に頂いて、次に横に、こう、人偏を頂いたんです。どげんなりますか。人偏に山という字を書きますと、こりゃぁ、仙人の仙という字になります。はぁ、おかげ頂いた。いうならば、御霊の、いうならば、修行です。御霊が、御霊なりに精進をしておる。それに、なら、遺族の者の人間ですね。人の心が、これにより添うた時に、仙人。仙人というのは、意味が違いますけれども、いうなら、人間ばなれとか、まぁ、変わった意味合いの徳を受けるというのが、仙人の世界と言われておりますが、もちろん、仙人道とか、ああ、そういうものではありませんけれどもね、金光様のご信心は。例えば、あの、皆さんと、人偏と山とがひとつになった時に、今日のお詞の中にもあったように、御霊の位も一段と進むという意味だと私は思いました。ここにね、あいよかけよです。御霊様と、遺族の者との、あいよかけよの交流がなからなければ、ここんところのおかげは頂けなかった。この御霊のお祭りを式年、式年、「お父さんの式年祭を」と思いにふけさせて頂いて、おかげ頂いて、マヨネーズがでけておった。こちらには、アスパラガスがね、もう、今はおそしと、その、今日の、この時間を待っておられたような感じする、ひとつになったという。私は、なんというてもね、あのう、親孝行というのはね、親の心に添うた時が、親孝行だと思うです、ね。さぁ、親に、さぁ、金峰に、その立派な着物を作ってやった。あ、沢山なです、山海の珍味を並べてやった、ね。というて、その、いうことだけ、さぁ、温泉に連れて行った、ということだけが、親孝行じゃぁないです。親の心というのは、もう、本当に、子供が助かりの姿を見ることが、親の助かりと同じこと。同時に、うんなら、その子供が、親の心に添う生き方。いうならば、「ここが、かゆい」と言うなら、「ああ、ここですか。」というて、かいてあげられるようなもの。
あのう、歌舞伎芝居の中に、二十四孝という、うん、お芝居がありますよね。これは、(?しな)の親孝行な人たちを二十四集めて、ひとつの劇ができておると言われておるお芝居なんです。中に、あのう、「筍掘り」というのがあります、ね。もう、それこそ、寒中に、「親が筍が食べたい」と言うわけ。「この寒中に、この雪の中に、どうして、筍があるはずがないじゃないか。」と、その子供が言わなかったんです。「親が食べたい。」というからね。この寒中に、筍があるはずないんだけれどもね、親に孝行するという一心で、「ひょっとしたら、あるかもしれない。」と言うて、裏の、その屋根に、雪をかき分けて、筍を掘る場面がありますよ。そしたら、筍は、もちろん出てこなかったけれども、自分自身が長年探し求めておったものが、そこに、いけてあった、というのです。私は、親孝行とは、そんなもんだと思う、ね。「この寒中に、どうして筍があるか。」と、まぁ、言うもんじゃなくてね、親が言われるから、それをするんだ。そこにはね、なら、その、私共が、「願い以上のものが、そこに隠されてあった。」という、そのおかげを受けるということが、大体、信心でいう、おかげなんです。信心の道を覚える。み教えを頂く。その、み教えを守るということは、自分の思うようになることではなくて、神様の思うようになるために、教えを守るのです、ね。そして、その教えを守らせて頂いておったら、思いかけない、夢にも思わなかったというような、おかげがね、こう展開してくる。それが、育ってくる。今日は、そういう、いうならば、あの、信心が、これからもできることのための、なにか、なにか、そういう暗示を感じ、私が感じましたですね。これからの、清松さん達一家のご信心が、そういう、神様の願いを受けて、別に、それ、教えを守ったからって、どうこうないけれども、親の心の添うて行こうとする、そこには、親の、私共が、思いもしなかった、願いもしなかった願いが成就していく。そこに、「神様が喜んで下さる。」ということになる、ね。そこから、神様も喜んで下さる、ご先祖も喜んで下さる、御霊様も、一段と位を進めておいでられるという、そういう、今日は、いわば、儀式だったわけです。どうぞ、これかの信心を、いよいよ、うん、今朝からも、御理解の中に頂きますように、もう、本当に、そのこのへんの、「親神さまということが分かり、私共が神様のおかげを頂かなければ、実を言うたら、ここ一寸動けないんだ。」と、自分で、動いておるようだけれども、「ありゃ、動かして頂いておるんだ。」ということが分かったらね、その、親神さまのお心に添わなければおられない。そこに、親と分かり、子と分かり、親と子とが、あいよかけよで交流する世界を、合楽するという、合楽の世界ともこういうわけ、ね。そこから、本当の親孝行の信心が、できるというふうに思うのです。ですから、もう、私共が、その親と分かれば、分かるほど、もう、すがらずには、おられない。願わずにはおられない。という世界が開けてくる。なにかこう、常識がある人は、「信心というものは、心を、まぁ、正していくもんであって、神様に願ったり、頼んだりするといったようなことは低級だと。そういうことは信心じゃないんだ。」といったようなことを本当のことのように、その常識的に分かっておるという人がありますけれども、金光様のご信心は、そうじゃないです。それが、だんだん、親だ、子だという関わりあいが分かってくる。だから、その、親であるということが、分かれば、分かるほど、親のひざに、いうならば、すがりよって行かなければおられない。そこに乳を腫らして、親が待っておる。その乳にすがって頂くということが、なんが悪い事。悪いことではない。それを頂いてこそ、はじめて親も楽になる。もし、これを頂かなかったら、もう、それこそ乳が張って、親も苦しいということ、ね。ですから、すがるように、私共が願っていくのが、金光様のご信心だと。「まぁ、ほんに、時々は参ってきて、お願いばっかりで、すいません。」という、その、お願いとは違う。「もう、頼むことばっかですいません。」というのとは違う。もう、親だからと分かったから、すがらずにはおられんという信心がね、これからでけていくような、おか、その、そういうような、今日はお祭りを、そういうようなことを、なんか教えてくださったようなね、そういう、なんか感じを受けたような気がするんです。どうぞ、このことは、もう限りがないことですけれども、あのう、これからの信心の上に、本当にすがら、もう、日々が、いうなら、もう四六時中が、願わずにはおられん、すがらずにはおられんという信心を、いよいよ身につけていけば、ね、魂の世界にある、御霊様に対する、いわば、信心の、まぁ、根を培うということにもなりますし、自分たちの根である、心を培うことにもなりますから、いよいよ、繁盛のおかげになってくる。どうぞ、そういう繁盛のおかげの頂かせてもらわにゃぁ、神様が喜んでくださらん。もう、そんなおかげなんかどうでも良い。いや、おかげなんか願うのは低級だという考え方は、金光様の信心においては、うそです、間違えです。分かれば、分かるほど、願わずには、すがらずにはおられんという信心が身についてこなきゃならんですね。どうぞ。